フランスの高校生は、バカロレアという最大の試験を乗り越えないと大学へ入学するための資格をもらえません。
それぞれの教科の試験は論述がほとんどで4時間にも及ぶ長時間の試験が普通です。
高校の最終学年、6月のバカロレアの季節が来て最初の試験は必ず「哲学」からと決まっています。
フランスのバカロレアの哲学の試験の模範解答ってどんなものか興味ありませんか?
2018年科学系バカロレア哲学の過去問
バカロレアの種類
バカロレアには3種類あります。
普通バカロレア(Baccalauréat général)
技術バカロレア(Baccalauréat technologique)
職業バカロレア(Baccalauréat professionnel)
この中で、普通バカロレアが普通高校のほとんどの生徒が受ける一般的なバカロレアなのですが、普通バカロレアもまた、3つの分野に分かれています。
Baccalauréat scientifique (S 科学系)
Baccalauréat économique et social (ES 経済・社会系)
Baccalauréat littéraire (L 人文系)
この中の「Baccalauréat scientifique (S 科学系)」がエリートコースを進むフランスの高校生たちが受けるバカロレアです。
科学系バカロレアの哲学の問題
科学系バカロレア「Baccalauréat scientifique (S 科学系)」の哲学の問題を見てみましょう。
2018年科学系バカロレアの哲学の問題としてこちらが出題されました
Le désir est-il la marque de notre imperfection ?
(欲望は私たちの不完全性の象徴ですか?)
解答は1つではなく色々とあるはずですが、解答例と1つを見てみましょう。
バカロレアの哲学の試験の模範解答
欲望は私たちの不完全性の象徴ですか?
模範解答としてフランスの哲学マガジンに掲載された内容を訳してみました。
問い: 欲望は私たちの不完全性の象徴ですか?
はじめに/問題提起
要求だけを持っていると思われる動物とは異なり、人間は欲望の存在である。これは、人間が自分自身の中心で、何がが欠落していることに気づいていてそれを埋めるために努力をしていることを意味している。人間は常に満足を求めている。
不完全とは、予期される標準から逸脱している何かの状態を指す。例えば、欠陥のためにサービスをうまく実行できない技術的なオブジェクトなどである。
一見したところでは、欲望は不完全さの象徴であるように思われる。なぜなら、人間は未完成の存在として生きていて、不満であり、常に何かを欠いているからだ。あたかも彼には欠陥があるかのように、あたかも彼が自分の可能な、あるいはそうしたいと思う所に達していないかのように。しかし、別の角度から見れば、当初は不可能であると思われることを可能にするために、人間には限界を押し広げ、進歩させるように仕向けるという欲求がある。すなわち欲望は人間の継続的な改善の原動力である。この問題に対する2つのアプローチから、不完全さの見方は2つある。1つ目は、一般的な欠陥、存在の根本的な限界である。しかし、よく考えるならば、逆説的に不完全性は多くのことが可能であるというふうにとらえられる。
パート1
欲望は人間の不完全性の象徴である。
欲すること、それは欠如、不在の意識を感じることである。欲望は知っている自分の状態と、なりたいまたは持っていたい状態のギャップを自分自身の中で掘り下げる。この観点から、私たちは自分が望むものではないので、欲望は不完全さの認識に関与する。さらに、欲望の反復的な性質は、得たものが期待にかなっていないという理由で、あるいは別の欲求が最初に満たされたものに取って代わるという理由で、私たちがめったに満足しないことを意味する。
「宴会」では、プラトンは有名なイメージを使って人間の状況を呼び起こしている。まるで私たち一人一人が失われた半分を探していたかのように、まるで私たちが半分に切り取られた元は完全な(元々は完璧な)存在であったかのように、完全なる元の状態を取り戻すために失われた半分を探す運命であるかのように。パートII
欲望は人間の完全性の象徴である。
それにもかかわらず、欲望の悲観的側面への主張は微妙に違う。人は要求だけを求める存在ではない。動物とは異なり、生存と健康の保証だけに満足しない。この点に関して、人間は移り気で「常にもっと」を望んでいるかのように、不必要な欲求に対する根本的な必要性に反対する反応をしがちである。しかし、実際には、ルソーが「人間の不平等の起源と根拠に関する言説」で示しているように、欲望も人間の完全性の象徴である。欲望がなければ、人間は歴史を持たない。動物のように、受動的に単純な進化を経験するだろう。今、人間は、価値観と原則の意識によって引き起こされた欲望によって動かされ、理想に従って行動する。確かに、それは不完全であると見られるが、それは完璧を目指すこと、そしてそれゆえ完璧な自分を目指すことの条件である。
パートIII
人間の不完全性は根本的な欠陥ではなく、存在に意味と価値を与えるものである。
欲望がなければ、私たちの存在は動物の存在と同等である。しかし、ジョン・スチュアート・ミルは、「満足した豚よりも不満のあるソクラテスである方が良い」と述べている。欲望が人間の存在に意味を与えるという言い方がある。欲望がなければ、知識への願望も計画も進歩もない。それは不完全さの象徴であっても、拒絶の動機となるものでもあり、欲望もまた不可能を可能にするものである。例えば、不公平な不平等が存在するために社会は不完全であり、それをそのように考えると、それはまさにこの社会的状況を拒絶するためである。しかし現実を拒むことは変化を望むことである!
結論
不完全性は軽蔑的な意味合いを持つ用語である。しかし、私たちは欲望にはそれがまた前向きな次元を持つことを見た。しかし、確かに、私達は欲望を十分に利用し、過剰、欲求不満および慢性的な不満につながらないようにそれを育てることを学ぶ必要がある。だからこそ、私たちは欲望に応え、たとえば、欲望の充足や恒久的な消費とは混同しないようにしなければならない。そうでなければ、残念ながら、象徴である不完全性はもはや原動力ではなく、限られたの生き物の状態、不完全さの感覚に終息する危険がある。
(原文参照:philomag.com)